スージークーパー年譜
1902年 10月29日 イギリス最大の陶器工場のある、スタッフォードシャーにて、実業家の父ジョンと母メアリー・アンの7人目の末っ子として誕生。本名はスーザン・ベラ・クーパー。富裕な家庭に育つ。母方の曾祖父が芸術的才能にあふれ、陶器のペインターをしていたこともあり、スージーはその才能を受け継いだと 思われ、幼い頃から非凡な絵の才能をもっていた。
1914年(11歳)父ジョンが53歳の若さで急死。兄達が父の事業を引き継ぐが 第一次世界大戦がはじまり(1914-18年)兵役で人手不足となり、事業は逼迫。幼いスージーも家業を手伝う。
1918年(16歳)戦争が終わり一段楽すると、地元スタッフォードシャのバーズレム・アートスクールの夜間コースに入学。17歳で奨学金を得て昼間部に移る。学校は陶器デザイナーを目指す子女が多かったが、スージーはファッションデデザイナーを夢見ていた。当時、ココ・シャネルの登場で女性のファッ ションに対する影響が大きく、スージーもおしゃれに目覚めていた。
1922年 (20歳)A.E.Grey & Co.Ltd.(陶器のグレイ社)にペインターとし 入社。当初はファッションの勉強のため、王立芸術学院への進学を目ざしていたが、陶器デザインのおもしろさに目覚め、グレイ社長の彼女の非凡な才能へのバックアップもあり、1923年からペインターではなく若きデザイナーとして大抜擢される。当時同じ女流デザイナーのクラリ ス・クリフが自分の作品にサインを入れたのがきっかけで彼女もバックスタンプにサインを入れ始める。当初は彼女のイニシャルS.CまたはS. V.Cの入った作品もある。
1929年(27歳) この年の10月24日、アメリカウォール街の株価暴落から世界 恐慌が始まる。この4日後の28日にグレイ社と退社。ジョージ・ストリートにお店を借り、陶器作家スージークーパーとして独立する。不況のまっただなか、イギリス陶器業界も先の見えない暗澹たる状態だったが、彼女は一流の窯焼き職人やグレイ社のペインター、アートスクール自体の後輩の見習ペインター数人を引き抜き、自分の陶器製造業を開始した。
1930年(28歳)10人ほどの小さい陶器会社 Susie Cooper Potteryが誕生 スージーは自分が一流のデザイナーであるといつも思い、スタッフにも一流の仕事を求めていた。彼女の商品はアッパーミドルを対象に高なペインティング商品を作り出した。最初の広告には「実用性を兼ね備えた上品さと芸術家としての手腕」として販売、熱狂的に世間に受け入れられた。
不況だったからこそ、若い女性や主婦層にロマンティックな憧れの食卓が受け入れられ、生活レベルの向上やゆとりと喜びを見いだしたいという欲求がスージーの食器によって満たされていったからでしょう。
当時でも彼女の食器は決して安いものではなく、例えばクレヨンラインの食器セットは6.12ポンド。今の価値にすれば4万円と、結構なお値段でしたが、少し無理しても買える中産階級という狙いは見事にあたり。また、ロイヤルファミリーの購入(ジョージ5世の妃メアリー女王)により一躍「高級品」と見なされるようになりました。
1931年(29歳) バースレムのCrown Works内に会社を移転。事業拡大。
1932年(30歳)リーピングデアをバックスタンプに使い始める
英国制作品評会に出品。彼女独特のデザインのチュリーンは、ふたをひっくり返してテーブルの上に置くことも出来、保管するときはふたをひっくり返してチュリーンの中にふたが収まり重ねることができるという実用性があり、大変話題になりました。
1933年(31歳)10月、ロンドンにショールームをオープン。ノルウェーや南アフリカに輸出を開始。その後、アメリカにも輸出。エールフランス、インペリアル航空(現在のブリティッシュエアーウェイズ)のロンドンーパリ間でスージーの食器を使用。一躍ヨーロッパでも知られるようになりました。
アメリカからカナダ、オーストラリアへと広がっていきました
1938年(36歳)4月24日建築家のCecil barker(セシル・ベーカー)と結婚
1939年(37歳)第2次世界大戦勃発
1940年(38歳)女性初のRoyal Designer for Industryになる
1942年(40歳)原因不明の家事で工場が全焼。戦争と火事により陶器製造を中断せざるを得ない厳しい状況にたたされる。
1943年(41歳)長男Timothy(ティモシー)誕生。子育てと家庭生活に没頭する。
1946年11月。工場再建。戦後の混乱でイギリス国内の陶器生産規制が続いていたため、輸出用陶器だけを製造する。また、戦争の被害でスージーの原画のリトグラフ(石版画)が焼失したため、かつてのデザインを転写することができず、新しいデザインが登場。
1950年(48歳)ボーンチャイナの会社「ジェイソン」を買収し、Susie Cooper China Ltd.設立。ボーンチャイナ生産開始
1957年(55歳)3月Susie Cooper Pottryの2度目の火災により倉庫まで焼失する大被害を被る。このため、倒産寸前まで追い込まれる。この焼失でまたリトグラフが失われ、しばらくハンドペイントに切り替えざるをえなくなった。
1957年12月RH&SLぶらんと社と合併して事業拡大。1958年には火事で大災害にあったウッド&サンズ社を買収。以前の勢いを取り戻し、ボーンチャイナを生産の中心にする。
1962年(60歳)一人息子のティモシーが19歳で母スージーの会社に入社。親子で一緒に仕事をするようになる。
1972年(70歳)イギリス陶磁器産業より功績を認められ、Order of the British Empire(大英帝国勲位)を授かる
1979年(77歳)夫、Cecil Barker死去。愛する夫を失った悲しみから4年間創作活動ができなくなり、一時は引退も考える。
1987年(86歳)Royal College of Art(王立芸術学院)より最高名誉の博士号を授与(若きスージーが進学したかった大学)ウエッジウッドとデザイナー契約を結ぶ。
1988年(87歳)一人息子ティモシーとマン島に移住。フリーランスのデザイナーとして仕事をする。
1995年(92歳)7月28日、92歳でマン島にて死去。
2009-04-15 23:21